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小牧・長久手の戦い同盟について

ページID:0001871 更新日:2023年3月1日更新 印刷ページ表示

「こまなが!ちゃんねる」に尾張旭市の紹介が追加されました

YouTubeチャンネル「こまなが!ちゃんねる」に尾張旭市の紹介が追加されました。「白山林の戦い」「織田信雄」ゆかりの地について紹介していますので、ぜひご覧ください!

「こまなが!ちゃんねる」尾張旭市・瀬戸市・日進市・長久手市の紹介<外部リンク>

「こまなが!ちゃんねる」について

小牧・長久手の戦い同盟とは

天正12年(1584)、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が戦った「小牧・長久手の戦い」は、後の天下人である秀吉と家康が直接対決した唯一の戦いであることから、戦場となった5市(小牧市、長久手市、日進市、春日井市、犬山市)が、「真の天下分け目の一戦は小牧・長久手の戦い」と評価し、協力して情報発信をしていくなど、連携を深めるために令和3年11月30日付で締結した同盟です。

尾張旭市は、令和4年1月28日に瀬戸市・可児市とともに、この同盟に加盟しました。

新規加盟市 尾張旭市・瀬戸市・可児市(令和4年1月28日加盟)
既加盟市 小牧市・長久手市・日進市・春日井市・犬山市(令和3年11月30日結成)
目的

戦いの知見を深める

ゆかりの地の繋がりを深める

日本国内外に発信し人々の往来を促す

小牧・長久手の戦い同盟盟約書初回[PDFファイル/347KB]

小牧・長久手の戦い同盟盟約書其ノ弐[PDFファイル/289KB]

画像をクリックするとPDFファイルが開きます。

尾張旭市とのかかわり

「小牧・長久手の戦い」時の「白山林の戦い」は、尾張旭市が戦場であったと考えられています。

今回、同盟に加盟することで尾張旭市が日本史上の重要な出来事に関連していることを多くの人に知ってもらえればと考えています。

また、同盟参加団体間の連携を深め、戦いの知見を深めるとともに、協力して情報発信することで効果的なPRを図っていきたいと考えています。

 

白山林の戦い【天正十二年(1584年)四月九日早朝】

本能寺の変で織田信長が倒れると、後継者争いがおこります。「小牧・長久手の戦い」は、勢いを増していた羽柴(豊臣)秀吉に対し、信長の次男・北畠(織田)信雄と徳川家康が連合して争った戦いですが、「白山林の戦い」はこの戦いの局地戦です。

天正十二年(1584年)四月六日、秀吉軍が家康の本拠地である岡崎を突くため犬山を出発、翌七日、信雄・家康軍はこれを知り、秀吉軍を追って小牧山を出陣しました。
九日早朝、信雄・家康軍の先遣隊は、秀吉軍の最後尾、総大将である三好信吉(後の三好秀次、その後豊臣秀次)の軍が白山林で朝食をとっていたところを急襲します。不意をつかれた三好軍は総くずれとなりました。三好信吉は逃げようとしましたが馬をなくしており、これを見た木下勘解由利匡が馬を貸して逃がしました。勘解由利匡は、兄の助左衛門祐久と奮戦しましたがあえなく戦死しました。現在も長久手市に勘解由塚が残っています。

白山林は、矢田川の南の丘陵地に広がっていました。その面影を残すものは、時代の流れの中に消えていきましたが、「南新町白山」という地名や「白山公園」にその名を残しています。

またこの合戦の時、新居村の棒の手の師範・水野吉平と禰宜の谷口菊三郎が、秀吉軍に食糧の調達免除を頼みにでかけたまま戻らず、探しにいった村人が吉平の亡骸を見つけたという言い伝えが残っています。村人たちは、吉平を弔う塚を八瀬の木のあたりに作り棒塚と呼びました。現在は、その碑が洞光院に残っています。

 

「こまなが!ちゃんねる」 

同盟に参加する8市で、YouTubeチャンネル「こまなが!ちゃんねる」を開設しました。

こまながチャンネル<外部リンク>

戦いの歴史や、ゆかりのスポットについて、同盟市の職員が楽しく発信していきます。下のリンクから是非ご覧ください。

Youtubeチャンネル「こまなが!ちゃんねる」<外部リンク>

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