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白山林の戦い

ページID:0010926 更新日:2023年3月1日更新 印刷ページ表示

天正12(1584年)に徳川家康と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が争った「小牧・長久手の戦い」の局地戦のひとつ「白山林の戦い」は、尾張旭市が戦場であったと考えられています。

このページでは、「白山林の戦い」に至るまでとその後を解説し、「白山林の戦い」にゆかりのある場所を紹介します。

白山林の戦いと尾張旭市内のゆかりの地 解説ちらし [PDFファイル/2.95MB]

「小牧・長久手の戦い」の流れと「白山林の戦い」

小牧・長久手の戦いはどうしておこった?

天正10(1582)年、本能寺の変で織田信長が討たれると、信長の後継者争いが勃発します。その中で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、本能寺の変を起こした明智光秀を討ち【山崎の戦い】、天正11(1583)年には、信長の三男・信孝を擁する柴田勝家を破ります【賤ヶ岳の戦い】。秀吉がその地位を確かなものにしていく中、危機感をつのらせた信長の次男・信雄は、徳川家康に同盟を求めました。そして、ついに秀吉と家康が争った唯一の戦い「小牧・長久手の戦い」へとつながっていきます。

小牧と犬山でにらみあい

天正12(1584)年3月に始まった小牧・長久手の戦いは、当初は伊勢方面が主戦場になるかと思われましたが、秀吉方についた池田恒興と森長可が3月13日に犬山城(現・犬山市)を急襲し占拠したため、家康は伊勢への出陣予定を変更し、軍勢の一部を尾張へと向かわせます。

3月17日には、家康方が犬山城から突出して陣を進めていた森長可を攻撃し、勝利します【羽黒八幡林の戦い】。

家康と信雄は小牧山城(現・小牧市)に本陣を構え、秀吉は楽田城(現・犬山市)へ入りました。そして、そのまま両者にらみあったままの膠着状態へと突入していきます。

土地条件図25000・色別標高図【ともに国土地理院】に加筆し作成

(土地条件図25000・色別標高図【ともに国土地理院】に加筆し作成)

岡崎へ進軍開始

秀吉は、この状況を変えるため三河「中入り」作戦を選択します。これは、家康の本拠地である岡崎を攻め、家康方を混乱させようという作戦です。そして、4月6日の夜、秀吉方の別動隊が岡崎へ向けて出発しました。

家康は、その動きを察知し岡崎へ進軍する秀吉方の後を追い小幡城(現・名古屋市守山区)に入りました。ここで、軍勢を二手に分け、榊原康政らが率いる隊を先に出発させます。

一方、秀吉方の先鋒である池田恒興の隊は、4月9日に岩崎城(現・日進市)の近くへ到達します。そのまま通りすぎようとした池田勢ですが、岩崎城からの攻撃を受けたため応戦し、岩崎城を攻め落とします【岩崎城の戦い】。

同じ頃、秀吉方の最後尾である三好信吉(後の三好秀次)隊は、白山林(現・尾張旭市)に留まっていました。しかし、実は小幡城からやってきた家康方の先発隊が、白山林で三好勢に追いついていたのでした。

白山林の戦い

9日早朝、白山林で朝食をとっていた三好信吉(後の三好秀次)の隊を、家康方の先発隊が急襲します。不意をつかれた三好勢は、あわてて応戦しますが、ついに総崩れとなります。三好信吉は、秀吉の甥であり、17歳で大将をつとめていました。信吉は、長久手方面へと逃げますが、その最中、馬を失ってしまいます。そこを助けたのが、木下兄弟です。木下勘解由利匡は、自分の馬を信吉に差し出して逃がし、兄の木下助左衛門祐久と共に、追っ手と戦い討ち死にしたと伝えられています。木下勘解由の塚が、今も長久手市荒田に残っています。

「白山林」は、尾張旭市の矢田川南にある高台に広がっていました。江戸時代に描かれた村絵図から、江戸時代に「白山林」と呼ばれていた場所を推定すると、今の尾張旭市長坂町・緑町・南新町・吉岡町と名古屋市守山区にかかるあたりになると思われます。

「白山林」という名前は、現在の南新町白山にあった「白山社」に由来すると考えられています。白山社は、明治時代に一之御前神社(現・尾張旭市稲葉町)に合祀され、跡地には石碑が建てられました。今、その碑は、本地ヶ原神社(現・尾張旭市南新町)の境内に移っています。

かつて白山林と呼ばれていた場所に、その面影はほとんど残っていませんが、矢田川の北から望むと、今でも小高い丘であることが分かります。当時、この地を訪れた人たちも丘を見上げたことでしょう。また、「南新町白山」という町名や、「白山公園(北本地ヶ原町四丁目)」、「白山道」などに「白山」の名を残しています。

「白山林の戦い」の後は、後述するように、長久手での決戦へと一気になだれ込んでいきました。

江戸時代の白山林(推定)

そして長久手での決戦へ

三好勢の前にいた秀吉方の堀秀政が率いる隊は、三好勢の敗北を知ると、桧ヶ根(現・長久手市)の丘の上に陣を構えました。そこに白山林で勝利した徳川方の先発隊がやってきますが、有利な場所で待ち構えていた堀隊が勝利します【桧ヶ根の戦い】。しかし、家康の本隊が近くにやってきていることを知ると、堀勢は深追いせず、軍をまとめ退きました。

一方、色金山(現・長久手市:色金山歴史公園)についた家康の本隊は周辺に陣を構えます。そして、岩崎城での戦いに勝利した池田勢に三好勢の敗戦が知らされると、秀吉方の軍勢は急いで引き返し、長久手で家康の本隊と対峙しました。両軍は激しく戦いなかなか決着はつきませんでしたが、最終的には家康方が勝利しました。

長久手の合戦の後、家康方の本隊は、小幡城を経て小牧山に帰って行きました。敗戦を知った楽田の秀吉は救援に向かい、竜泉寺(現・名古屋市守山区)まで到達しましたが、その頃すでに家康は小幡城まで引き返しており、秀吉もそのまま楽田に帰りました。小牧や犬山でもいくつか戦はありましたが、4月下旬に秀吉が岐阜県に移動すると、戦いの地も尾張西部へ移っていきます。その後も何度か局地戦がありましたが、11月には秀吉と信雄が和睦したため、家康も兵を引き、「小牧・長久手の戦い」は終わります。

 

「白山林の戦い」ゆかりの地

尾張旭市内の「白山林の戦い」にゆかりある場所を紹介します。

洞光院・棒塚

小牧・長久手の戦いの時、新居村の棒の手・無二流の師範である水野吉平と禰宜の谷口菊三郎が、秀吉方の軍に食料の調達を免除してもらおうと頼みにでかけたまま戻らず、探しに行った村人が吉平の亡骸を見つけたという言い伝えが残っています。村人たちは、吉平を弔う塚を八瀬の木(今の城前町)のあたりに作り、棒塚と呼びました。現在は、その塚はありませんが、石碑が洞光院に残っています。

洞光院棒塚写真

白山社跡

白山林という名前の由来になったと思われる白山社は、明治44年に一之御前神社に合祀されました。

平成元年、南新町白山の古墳ではないかと思われた高まりを発掘調査したところ、「元白山神社」と刻まれた石碑が発見されました。発掘された場所は古墳ではなく白山社があった場所で、石碑は白山社がなくなるときに建てられたものではないかと推測されています。現在、白山社跡にはその面影はありませんが、発掘された石碑は本地ヶ原神社の鳥居横で見ることができます。

【注】白山社自体と「白山林の戦い」には直接の関連は伝わっていません。

 

稲葉村絵図(全体)

稲葉村絵図

稲葉村絵図(白山社)

稲葉村絵図【白山社】(黄色枠内拡大)

 

本地ヶ原神社・兜神社

本地ヶ原神社の境内にある兜神社は、白山林の戦いの戦死者を祀っています。兜神社は、昭和45(1970)年に本地ヶ原神社が創建された時に造られました。

また、本地ヶ原神社の鳥居横では「元白山神社」の石碑を見ることができます。

兜神社写真

兜神社

良福寺・織田信雄書状

小牧・長久手の戦いで家康と手を結んだ織田信雄が、天正10(1582)年8月に良福寺の寺領を安堵した書状です。市の文化財に指定されています(尾張旭市指定文化財第8号「織田信雄書状」)。

信雄は、清須会議の後、天正10年7月に尾張を相続しました。これにより、南伊勢から清州に本拠を移し、尾張の家臣団や寺社と新たに知行関係を結びました。天正10年8月を中心に多くの安堵状が残っています。

 

番外編・賤ヶ岳の戦いゆかりの人

毛受勝助家照の像(尾張旭市文化会館前)

「小牧・長久手の戦い」の前に、羽柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で名を残した毛受勝助家照は、稲葉村(現・尾張旭市)の出身だと伝わっています。

毛受勝助家照は、柴田勝家の家臣です。天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家の身代わりとなって敵をひきつけ戦い、勝家が逃げる時間を稼いで討ち死にしました。尾張旭市の文化会館前には、毛受勝助家照の像が建っています。また、賤ヶ岳の戦いのあった滋賀県長浜市には、毛受勝助家照とその兄の墓(毛受兄弟の墓)が作られ地元の方たちに大切に守られています。

 

毛受勝助像(文化会館)写真

毛受勝助家照像

毛受兄弟墓(滋賀県長浜市)写真

毛受兄弟の墓(滋賀県長浜市)

小牧・長久手の戦い同盟

小牧・長久手の戦いにゆかりのある8市で「小牧・長久手の戦い同盟」を結成しました。

連携して情報を発信していきます。

詳しくは、「小牧・長久手の戦い同盟について」のページをご覧ください。


 

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